学習者は真剣に外国語を勉強する時、どうしても間違ってしまう。せっかく規則を覚えてそれを応用したつもりなのに、「それは例外」とか言われると、何だかやる気がなくなってしまう。このような誤用をきちんと分析すれば、その成果としてすばらしい教科書ができるはずだ。本来教科書とはその対象である学習者のことをよく考えて、難しそうなところ、間違えそうなところをきちんとわかりやすく説明する必要があるのだ。 問:外国語の教科書について筆者はどのように述べているか。
举一反三
- 中国大学MOOC: 「科学者と聞くと、普通の人ではとても考えられないような難しいことばかり研究している人だと思ってしまう。もちろん、専門的な知識がなければ科学の研究はできないだろう。しかし、科学の研究は、私たちが普段当たり前に思っている事柄について、それが当たり前かどうか考え直すことにあるのだ。それができたら、その人は科学者になる第一歩を踏み出したと言えるかもしれない。」「それ」は「専門的な知識を持つこと」を指します。
- 幼い子どもに弟や妹ができると、赤ん坊に戻ったように振る舞うことがある。それまで自分の世話だけをしてくれていた母親が、生まれたばかりの弟や妹の世話で忙しくなる。赤ん坊に戻って、自分も同じように母親に世話をしてもらいたいと思うのだろう。 母親は、どの子も同じように育てているつもりである。しかし、子どもにはそのことがわからないので、自分は大切にされていないと思い、不安になるのだろう。 問:「そのこと」とは何か。
- 緑がだんだん減っていると言われています。緑の減少で、空気が汚くなるというさまざまな間題が出てしまうことはみんなが感じています。①緑を増やすために、国がいろいろとかんばっていますが、それだけでは足りないと思います。 縁を増やすには、わたしたちは一人一人ができることから、何よりもまず実際にやらなければなりません。それにはどうしたらよいでしょうか。それぞれの県や市には代表的な花や木があります。例えば、東京の花はソメイヨシノで、木はイチョウです。それと同じように一人一人、あるいは家々が「自分の花、自分の木」というものを決めて、そこから緑を増やしていくようにしたらよいとわたしは考えました。 自分の好きな花や木をそれぞれ決め、庭に「自分の花、自分の木」を育てることから始めたらどうでしょうか。土地の多い村に住んでいる住民は、できるだけ多くの木を、土地の少ない都市に住んでいる住民は、できるだけ庭やベランダに花を植えるようにしましょう。 このようにすれば、緑を増やすことができるのではないでしょうか。もちろん木や花は植えればいいというだけではいけません。水をやり、育てなければなりません。②そこからきっと人の中にも自然にやきしい心が育つだろうと思います
- 中国大学MOOC:血液型に対する意見は人によって様々である。私が血液型の話を口にすると、「科学的に何の根拠もない」と言う人もいる。もちろん、人間は一人一人違うということは分かっているつもりである。だからよく付き合った上でその人を判断するようにしている。問:続きの文としては、(B)より(A)のほうがもっとふさわしい。(A)しかし、私が初めて会った人にまでそれを聞くのは、そうすることが相手をよりよく知る近道になると思うからだ。(B)血液型の話を信用しないほうがいい。
- 「恥の文化」が国民性の日本では、親の介護を他人に任せるのは「身内の恥」とするような風潮が強く、それが高齢者介護などの社会化を遅らせる大きな要因だったと言える。しかし、1990年代の半ばを過ぎたころから、介護に疲れて嫁が姑を殺した事件とか、老人虐待事件が頻発し始めた。かつての日本では、年老いた親面倒をみることを「親孝行」と言い、「親孝行したいときには、親はなし」と言ったものだが、①これは平均寿命が短かったからよかったのであり、今では、「親の長生き、子のため息」という言葉が生まれる。もはや「( ② )」どころではなくなったのである。こうして日本でも遅ればせながら、介護保険制度(2000年4月)が発足したのだが、日本の公的介護システムは、北欧諸国に比べて、まだまだ遅れていると言わざるをえない。だが、目下のところは、この制度に頼るほか方法がないのが現状だ。 このようにとかく暗いイメージで語られがちな高齢社会であるが、少し視点を変えれば、高齢社会の到来こそ、よりよい社会をつくるチャンスだと言うこともできる。なぜなら、高齢社会とは80年サイクルで人生を考えることができる社会であり、もし「効率と競争」ばかりが優先される社会の歪みが是正され、高齢者や障害者にも社会参加の場があるようなバリアフリー社会を築くことができれば、それは誰にとっても住みやすい社会を作り出すことにつながると考えるからである。 若いうちというのは、老いは他人事としてしか思えないものだが、老いは誰にも必ず訪れるものである。これを機会に、自分が老いを迎えたとき、どのように生活したいのか考えてみようではないか。それに答えがあるはずなのだ